仁杉家最後の与力・英(幸英)              玄関へ戻る
与力小伝 
 原胤昭がまとめた「与力小伝」という史料が四番町歴史博物館所蔵の原関係文書の中にあり、同館の報告書に掲載されている。 「同方会誌」という雑誌(会報)に掲載した、あるいは掲載前の原稿と思われる。  
 この中に取り上げられているのは、次の5件である。
      @仁杉英  
      A横山機関少将職を退く
      B尾崎氏
      C秋山氏
      D中島氏

 仁杉英については「同方会誌」35号に掲載されたものと思われる。 内容としては御殿場市仁杉にある伊賀守幸通墓所前にある碑文から引用した仁杉家の出自を述べた後に八右衛門家および英の履歴を紹介している。
 文面から見て明治35年6月に本人が書いたものと思われる。なお、同館報告書によれば「同方会誌」第35号の発行は1912年11月とある。 1912年といえば明治45年から大正元年に改元された年、英の死亡する9年前のことである。 
             与力小伝
仁杉英

  姓     藤原

  本国    伊豆

  紋所    丸ノ内二重亀甲花形 

  族籍    東京府士族

  住所    日本橋区浜町一丁目一番地

  旧氏名   仁杉五郎八郎

  雅号    勿転無一

  生年月日  嘉永六年八月廿三日

嚢祖仁杉伊賀守幸通は、南家藤氏の喬、伊東九郎祐清の嫡男左衛門権佐祐光十二世の孫なり、世々伊豆伊東に居る君故ありて駿河駿東郡仁杉村に移る、因て仁杉を以つて家号とす、

北条氏に仕えて伊豆四人衆の一なり、北条氏滅びて仁杉村に蟄居す、
二世五郎左衛門幸高、慶長
元年東照公に仕えて御弓与力となる、
三世八右衛門幸重職を襲ぎ、大阪両度の役に従ふ、「此役に於る指物
.甲冑を保存せり」、四世与兵衛幸勝職を襲ぐ、腕を病むを以て辞す、即ち江戸町奉行組与力を命ぜらる、爾来世々継襲する、
八世五郎八郎幸堅の子八右衛門幸振新に召出されて、町奉行組与力となる、是我家の祖なり、而して幸堅の家は其子五郎左衛門幸信に至りて絶す、
幸振の子八右衛門幸雄、其子八右衛門幸昌、其子は即ち英なり、英幼にして坪井秀蔵に従ひ、漢学書を受け、慶応二年与力見習となり、同三年本勤並となり、明治元年父と共に鎮台府付きに召出され、市政裁判所
.東京府に勤仕す、二年七月罷らる、更に海保弁之助に従ひ、漢籍を攻め、兼て大学に学ぶ、三年六月東京府仮小学第一校舎頭を命せられ、同年九月東京府中学に入り中級生となり、尋て上級生に進む、四年七月洋学第一校に入り、独逸語を学ぶ、
十一年六月免許を得て代言人となり、十九年四月同組合常議員となり、廿年四月副会長となる、同年十二月東京府会議員に選挙せられ、爾来市会議員
.区会議員・名誉職市参事会員・区学務委員・徴兵参事員.府会常置委員.府会及市部会副議長等に選挙せられ、且各種の委員に選はれ、又廿七年に弁護士組合副会長に選はれ、其他日本橋区に於ける教育会・衛生協会・奨兵義会等に評議員兼幹事若くは理事たり、三十年八月日本橋区長に任せられ、三十一年十月兼浅草区長に任ぜられ、三十二年兼務を解かる。三十五年五月区長を辞す、同年六月市会議員に当選す、明治三十五年六月九日提出

 江戸町奉行所与力・仁杉八右衛門幸昌の長男として嘉永6年(1853)8月、八丁堀組屋敷で生まれる。
 はじめ五郎八郎を名乗り、明治維新の少し直前の慶應2年(1866)14才の時、南町奉行所の与力見習として出仕、明治維新で町奉行所が新政府に接収されるのに立会った。
 維新後は奉行所が市政裁判所として鎮台府、そして市政裁判所に吸収されるに伴い、東京府の吏員となった。

 明治2年7月、東京府吏員を免職となり、大学校などで学んだ後、明治11年に代言人(今の弁護士)となった。
 明治20年、東京府会議員に立候補して政治に携わり、東京市会議員、議長、衆議院議員などを務めた他、東京市各区の区長を歴任した。 
 代言人、弁護士、議員、区長といった多彩な経歴から交遊関係にあった人が多かった。
 書家や画家との付き合いも多かったようで、英の画帳には著名な画家や書家の小作品がぎっしりである。   仁杉家の「お宝」参照
 
英自身も書画および謡曲を趣味とする文化人でもあった。  「壷中無一」号で俳諧を嗜み、「一静」あるいは「壱静」の号で書を残している。(下が英の書)
 また、漢籍を坪井秀藏、海保辮之助等の門に学び、愛読した。 

     仁杉英 (明治中期頃?)
 南北会という南北の与力・同心の親睦会がある。時々集まって当時の衣装を着て昔を懐かしんだようだ。大正時代まで続いている。

 英 自筆の書  
    
 
大学校入学
 英は写真のように大学校に入学願書を提出し、附け札(聞届候事)のように入学を許可されている。
 年号はなく11月22日とだけあるが、大学校の沿革を調べるとこれが明治2年であることがわかる。(文中にも丑とある。)
 
英はこの当時はまだ八右衛門家の嫡子が代々名乗っていた「五郎八郎」であり、父親八右衛門(幸昌)から大学校宛ての願書となっている。
 この年、五郎八郎は十七才、この当時はまだ与力時代の拝領屋敷があった八丁堀北島町に住んでいた。
 この年の7月に東京府吏員を辞めているので、その直後に大学校に入学したと考えられる。

 
明治大正人名辞典によれば「二年七月罷職後東京府中學、洋學第一校に學び燭乙語を研究す。」とあり、また「大学南校に濁逸語を修め、云々」とある。
 
それまでは漢学(漢籍)を学んでいたが明治政府がドイツを法学の手本とした事から法曹界に進むためにドイツ語を学んだものと思われる。
 
 
不思議なことに、英自筆の履歴書には大学校に籍をおいた事は書かれていない。
 入学しただけで卒業(修了)しなかったのか、あるいは履歴書に書くほどのことはないと考えたのか。
























門 




廿









度、















宿

















   



























辮官附

大学校
 東京大学の前身のひとつ。
 寛政9年11月に開設された昌平黌(昌平坂学問所)が明治元年6月、新政府のもとで昌平校となり、翌明治2年6月には大学校と改組されて国学、漢学の最高教育機関となった。

 その年の12月には単に「大学」と改称されたが翌3年7月には閉鎖、明治4年7月には廃止され、幕府天文方、開成学校の流れを汲む大学南校、幕府種痘所、医学校を前身とする大学東校に統合され、明治10年に東京帝国大学となった。
 
東京大学 沿革略図参照
   
代言人

 
代言人は現在の弁護士の前身。明治5年に制度化された。 公事訴訟には本人出廷という維新前の原則を覆す画期的なものであったが、当初は21才以上であれば誰でも代言人になり得た。
 しかし明治9年に代言人制度が改訂され、所轄の地方官が検査を行い合格者に代言人の資格を付与したが、その懲戒権は裁判所の下にあった。
 英がこの代言人試験に合格したのは制度改訂の2年後、明治11年6月である。
 明治13年に代言人制度が改正され、司法省の全国統一試験に合格した者に代言人の免許が与えられることになった。
 代言人は各裁判所毎に組合を設置し、必ずこれに加入しなければならなかった。
 下は明治18年6月の東京代言人組合の組合員一覧表である。 相撲の番付に似た表になっており、「前頭」の12番目に「日本橋青物町 仁杉英」とある。
 この翌19年、英は組合の常議員になり、20年には代言人組合副会長となり、代言人として重きをなした.


東京代言人組合一覧
(明治18年6月24日)
左上部分の拡大   
 
.政界進出
 明治20年、東京府会議員に立候補し当選、代言人から政治の世界に打って出た。
 その後明治22年には日本橋区区会議員、明治24年、東京市会議員に当選している。
 またこの間、明治22年には日本橋区市徴兵参事員、明治24年には日本橋区学務委員、明治26年、東京市名誉職市参事会員などになっている。
 明治26年5月から代言人は弁護士と呼ばれるようになり、弁護士名簿登録し、30年8月まで弁護士として活動している。
 この間に破産管財人、東京府会市部常置委員、東京府地方衛生会委員、小学校教科用図書審査委員など多彩な活動もしている。
 明治27年6月、東京弁護士会副会長をつとめ、明治29年には東京府議会の副議長に当選している。
 その後、日本橋区長、浅草区長などをつとめたが、明治35年8月13日、日本橋区選出の衆議院議員に当選した。しかし衆議院は同年12月28日解散したため4ヶ月余の国会議員だった。
 この当時、国会議員と東京市会議員の兼務が認められていたようで、同じ35年の6月に東京市会議員選挙に立候補し、次のような結果で当選している・
明治35年(1902)6月 日本橋選挙区
 2級有権者数 360  投票者数 67  有効投票投票数 65

        候補者     会派     得票数     当落
        仁杉 英    中立      52     当選
        木村春東            13     落選

  
明治29年にも立候補しており当選しているが、この時の得票数などは不明
                   以上 麗沢大学 桜井良樹氏の調査による

 10月には東京市会議長に当選し翌年11月までつとめている。

           日本橋区長時代(明治30年代前半)の英  (写真中央) 

 
 明治36年、再び弁護士名簿登録したが同年12月に請求取して、深川区長に就任し、続いて本郷区長、小石川区長、本所区長、麹町区長などを歴任する。
 明治39年4月、日露戦争の後方支援で功があったとして勲六等単光旭日章と金四百円を授与された。
 大正3年1月、東京市の退職規程により麹町区長を最後に第一線を退いた。

晩年
 大正10年11月、明治維新を挟んだ二つの世界を生きた多彩な人生を終えている。67才だった。
法名 英勝院殿勿軒無一居士  墓所 小石川喜運寺

 妻は歌子。 長男の寅氏は日銀に勤務したという。
 
 仁杉家は明治初期は北島町、続いて日本橋浜町に住居を構えていたがその後明治中頃には日本橋青物町に移り、大正時代には東京府荏原郡大井町1192番地に住んでいる。
 その後、英氏の没後は日暮里渡辺町に移っている。

英の本名は幸英だった。

 
幸@、幸雄、幸昌と続いた八右衛門家の嫡子の名に仁杉家の通字「幸」がついていない事を不思議に思っていた。

   @幸通ーA幸高ーB幸重ーC幸勝ーD幸次
             ーE幸光ーF幸計ーG幸堅ーH幸信 (本家断絶)  
                (八右衛門家)  ー@幸@ーA幸昌ーB幸雄ーC

 このほど千代田区立歴史民俗資料館の仁杉家関連史料で英の旧名は「幸英」であることがわかった。
 原胤昭関係の古文書に含まれていた仁杉家史料「雑録」(写真左)の中に「御書付其外雑留」という冊子があり、ここに「幸英」という署名が見られる。
 慶應3年とあり、この当時のは実名は「幸英」であり、「五郎八郎幸英」を名乗っていたことがわかった。
 やはり通字の「幸」は英の代まで継承されていたのだ。
明治の世になり、近代的な名前?ということで「幸」を取り英を名乗ったのであろうか。 

森鴎外との意外な接点
 森鴎外の作品の中に、仁杉英との意外な接点があった事を示す一文があった。

 森鴎外は文久2年(1862)の生まれ、第一医科大学(今の東大医学部)を卒業し陸軍の軍医となりドイツに留学、明治21年に帰国してから執筆活動を始めている。 
 その鴎外の多数の作品の中に「井沢蘭軒」という伝記ものがある。この中に、下記のように「仁杉英さんに教をうけて柴田氏の事跡を詳らかに・・」という一文があった。

その二百九十二

 此年安政乙卯に、頼氏では山陽の未亡人里恵が歿した。年五十九である。後藤松陰の墓表に、里恵が修して梨影に作つてある。初めわたくしは松陰が文を撰ぶに当つて、文字を雅馴ならしめむとして改めたものかと疑つた。後山陽の書牘を見るに、梨影の二字は山陽が早く用ゐてゐた。 此年乙卯に榛門の柴田常庵の同族、三十間堀の洛南柴田元春が歿した。わたくしは今仁杉英さんの教を受けて、稍幕医柴田氏の事蹟を詳にすることを得たから、此に其概略を補叙しようとおもふ。
 江戸の唖科柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖、名は直教と云つた。直教の子が直儀、直儀の子が賢、賢の二子が元泰元徳である。 元泰、名は直為、字は子温、東皐と号した。曾祖父直教が早く寛永貞享間に名を成し、直為に至つて幕府に仕へた。林述斎の墓誌に、「遂以天明四年、賜謁大廷、尋而執技出入城中者数年、至享和元年、擢入西城医院、叙法眼位」と云つてある。述斎の家は此人の病家であつた。元泰直為は文化六年十一月二十四日七十二歳で歿した。 元泰直為の後を襲いだものが元岱直賢である。字は英卿又可久、竹渓と号した。

(以下略)

この作品は大正5年(1916)6月から翌年9月まで「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に掲載されたものだが、この当時英は63歳、2年前に第一線を退いて悠々自適の時代だった。 鴎外から請われて往時のことを話したのであろう。

英はこの5年後の大正10年に没しているが、9歳下の鴎外もその翌年に没している。


南北会
 
旧町奉行所の関係者が旧交を温めるとともに南北奉行所の旧記や法令の収集や江戸幕府の制度の記録、研究などを目的に、明治22年に設立された。
 設立発起人は谷村正養、三村親始、高橋正法、安藤親枝、桜井正路の5人で、当初は6,70人もいた会員が次第に減少した。 明治42年の会合に出席したのは佐久間長敬、高橋正法、都筑成幸、安藤親枝、原胤昭、それに仁杉英の6人のみだったという。
 下の写真に写っている人物はまさに上に挙げた6人と、かっては官軍方で維新の時には南町奉行所受け取りの責任者であった土方久元である。撮影時期については記されていないが、この時に撮影された可能性が高い。
裏面記載
明治元年五月江戸町奉行所授受に関係したる者生存者
 後列 原胤昭、佐久間長敬、    安藤親枝、仁杉英
 前列 高橋正法、土方久元伯    都築成幸

 南北会の規約は何回か改正されているが、明治35年当時の規約は下記のとおりである。
   (四番町歴史民俗資料館)
 この当時、英は幹事として名を連ねており、中心的な存在だった。
南北会規約
一、本会ハ旧江戸町奉行組ノ者往時ノ交誼ヲ維持シ、将来疎遠ナカラン為二設クルモノトス。故二当時ノ家長及其子孫タルモノハ男女ヲ別タス職業ヲ問ハズ、会員タラン事ヲ希望ス。
組筋出身ノ者、又ハ旧勤向縁故アル者モ亦会員タル事ヲ得。
一、本会ハ旧事ノ紀念ヲ表シテ南北会ト称ス。
一、本会ハ会員ノ業務繁忙ト住居遠隔トヲ以テ時々会同ヲナサス、毎年一回東京二於テ開クモノトス。但会員ノ申合二依リ若クハ幹事ノ意見ヲ以テ年始又ハ臨時懇親会ヲ開ク事アルベシ。
一、在京会員ハ会費トシテ毎月金拾五銭宛出金ヲ要ス。但常会費総会費共含ス。
一、前条会費ハ毎月若クハ隔月集金人ヲ出ス。尤モ数月分取纏メ出スコトハ各自適宜トス。
一、地方会員ハ毎年一月中二常会費金参拾銭幹事方へ送附シ、総会出席ノ節ハ其会費持参ヲ要ス。
一、本会二係ル一切ノ収支決算ハ毎年総会二於テ報告シ、其残余ハ郵便貯金又ハ銀行へ預ケ置クベシ。
一、会員ノ異動報告便宜ノ為、名簿ヲ製ス。会員は其転居等速二幹事へ報告スベシ。
一、会員死去ノ時ハ親族等ヨリ速二幹事二報告スベシ。幹事ハ直二全会員二通知シ、且会員一名二付金十銭ノ割ヲ以テ香料相贈リ、右領収書ハ次会二於テ報告スベシ。
一、会員火災二罹リタルトキハ、幹事ハ直二訪問ヲナシ、会員壱名二付金弐銭ヲ標準トシ、物品若クハ金員ヲ贈与シテ慰問ノ意ヲ表スベシ。
一、会員ハ会日ニ家族ヲ同行スルハ随意タルベシ。尤モ酒食料ハ一名毎二之ヲ要ス。
一、幹事ハ年々在京会員中ヨリ五名ヲ会日投票ヲ以テ撰定シ、後会マテノ事務ヲ担当セシム。
一、入会ヲ望ム者ハ会員ノ紹介ヲ以テ幹事二申込ムベシ。
一、此規約ハ会員二十名以上ノ請求アル時ハ総会ヲ開キ協議更正スル事アルベシ。
    明治三十五年一月改
              幹事
                    谷村正養
                    高橋正法
                    安藤親枝
                    仁杉英
                    日向野通宝

  南北会は上記のような規約で旧与力、同心たちの集まり以外にも家族を含めた懇親会や往時の扮装をしたりするイベントを開催しており、下記2枚の写真が八右衛門家の子孫である世田谷仁杉家に残されている。

 上の2枚の写真は裏面に
   大正十五年五月 神田元柳原原宅にて
   元江戸町奉行所関係者
とある。

 原胤昭、佐久間長敬などの顔を見ることが出来るが、英は5年前に死去しており、夫人の歌さんが参加したという。
 後方に「南」という字を大暑した「南字旗」が見えるが、これは当時仁杉家に所蔵されていたという。
 また、後左側のもうひとつの旗にも「仁杉」という字が見える。
 仁杉美代さんによると、下の写真、前列左から二人目が英の未亡人歌(うた)、その右隣は元与力谷村氏の未亡人甲子(かね)とのこと。
 
昭和時代の南北会
 
昭和に入ると江戸時代からの生き残りは極僅かとなり原胤昭を別とすると、与力・同心だった人の子や孫の世代になった。
 昭和11年当時の南北会規約及会員名簿が四番町歴史民俗資料館に所蔵されている。これによると仁杉家からは博氏が会員名簿に名を連ねている。