| 仁杉家最後の与力・英(幸英) 玄関へ戻る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 与力小伝 新 原胤昭がまとめた「与力小伝」という史料が四番町歴史博物館所蔵の原関係文書の中にあり、同館の報告書に掲載されている。 「同方会誌」という雑誌(会報)に掲載した、あるいは掲載前の原稿と思われる。 この中に取り上げられているのは、次の5件である。 @仁杉英 A横山機関少将職を退く B尾崎氏 C秋山氏 D中島氏 仁杉英については「同方会誌」35号に掲載されたものと思われる。 内容としては御殿場市仁杉にある伊賀守幸通墓所前にある碑文から引用した仁杉家の出自を述べた後に八右衛門家および英の履歴を紹介している。 文面から見て明治35年6月に本人が書いたものと思われる。なお、同館報告書によれば「同方会誌」第35号の発行は1912年11月とある。 1912年といえば明治45年から大正元年に改元された年、英の死亡する9年前のことである。
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江戸町奉行所与力・仁杉八右衛門幸昌の長男として嘉永6年(1853)8月、八丁堀組屋敷で生まれる。
大学校入学 英は写真のように大学校に入学願書を提出し、附け札(聞届候事)のように入学を許可されている。 年号はなく11月22日とだけあるが、大学校の沿革を調べるとこれが明治2年であることがわかる。(文中にも丑とある。) 英はこの当時はまだ八右衛門家の嫡子が代々名乗っていた「五郎八郎」であり、父親八右衛門(幸昌)から大学校宛ての願書となっている。 この年、五郎八郎は十七才、この当時はまだ与力時代の拝領屋敷があった八丁堀北島町に住んでいた。 この年の7月に東京府吏員を辞めているので、その直後に大学校に入学したと考えられる。 明治大正人名辞典によれば「二年七月罷職後東京府中學、洋學第一校に學び燭乙語を研究す。」とあり、また「大学南校に濁逸語を修め、云々」とある。 それまでは漢学(漢籍)を学んでいたが明治政府がドイツを法学の手本とした事から法曹界に進むためにドイツ語を学んだものと思われる。 不思議なことに、英自筆の履歴書には大学校に籍をおいた事は書かれていない。 入学しただけで卒業(修了)しなかったのか、あるいは履歴書に書くほどのことはないと考えたのか。
代言人 代言人は現在の弁護士の前身。明治5年に制度化された。 公事訴訟には本人出廷という維新前の原則を覆す画期的なものであったが、当初は21才以上であれば誰でも代言人になり得た。 しかし明治9年に代言人制度が改訂され、所轄の地方官が検査を行い合格者に代言人の資格を付与したが、その懲戒権は裁判所の下にあった。 英がこの代言人試験に合格したのは制度改訂の2年後、明治11年6月である。 明治13年に代言人制度が改正され、司法省の全国統一試験に合格した者に代言人の免許が与えられることになった。 代言人は各裁判所毎に組合を設置し、必ずこれに加入しなければならなかった。 下は明治18年6月の東京代言人組合の組合員一覧表である。 相撲の番付に似た表になっており、「前頭」の12番目に「日本橋青物町 仁杉英」とある。 この翌19年、英は組合の常議員になり、20年には代言人組合副会長となり、代言人として重きをなした.。
.政界進出 明治20年、東京府会議員に立候補し当選、代言人から政治の世界に打って出た。 その後明治22年には日本橋区区会議員、明治24年、東京市会議員に当選している。 またこの間、明治22年には日本橋区市徴兵参事員、明治24年には日本橋区学務委員、明治26年、東京市名誉職市参事会員などになっている。 明治26年5月から代言人は弁護士と呼ばれるようになり、弁護士名簿登録し、30年8月まで弁護士として活動している。 この間に破産管財人、東京府会市部常置委員、東京府地方衛生会委員、小学校教科用図書審査委員など多彩な活動もしている。 明治27年6月、東京弁護士会副会長をつとめ、明治29年には東京府議会の副議長に当選している。 その後、日本橋区長、浅草区長などをつとめたが、明治35年8月13日、日本橋区選出の衆議院議員に当選した。しかし衆議院は同年12月28日解散したため4ヶ月余の国会議員だった。 この当時、国会議員と東京市会議員の兼務が認められていたようで、同じ35年の6月に東京市会議員選挙に立候補し、次のような結果で当選している・
10月には東京市会議長に当選し翌年11月までつとめている。
明治36年、再び弁護士名簿登録したが同年12月に請求取して、深川区長に就任し、続いて本郷区長、小石川区長、本所区長、麹町区長などを歴任する。 明治39年4月、日露戦争の後方支援で功があったとして勲六等単光旭日章と金四百円を授与された。 大正3年1月、東京市の退職規程により麹町区長を最後に第一線を退いた。 晩年 大正10年11月、明治維新を挟んだ二つの世界を生きた多彩な人生を終えている。67才だった。
妻は歌子。 長男の寅氏は日銀に勤務したという。 仁杉家は明治初期は北島町、続いて日本橋浜町に住居を構えていたがその後明治中頃には日本橋青物町に移り、大正時代には東京府荏原郡大井町1192番地に住んでいる。 その後、英氏の没後は日暮里渡辺町に移っている。 英の本名は幸英だった。
このほど千代田区立歴史民俗資料館の仁杉家関連史料で英の旧名は「幸英」であることがわかった。 森鴎外との意外な接点 森鴎外は文久2年(1862)の生まれ、第一医科大学(今の東大医学部)を卒業し陸軍の軍医となりドイツに留学、明治21年に帰国してから執筆活動を始めている。
この作品は大正5年(1916)6月から翌年9月まで「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に掲載されたものだが、この当時英は63歳、2年前に第一線を退いて悠々自適の時代だった。 鴎外から請われて往時のことを話したのであろう。 英はこの5年後の大正10年に没しているが、9歳下の鴎外もその翌年に没している。 南北会 旧町奉行所の関係者が旧交を温めるとともに南北奉行所の旧記や法令の収集や江戸幕府の制度の記録、研究などを目的に、明治22年に設立された。 設立発起人は谷村正養、三村親始、高橋正法、安藤親枝、桜井正路の5人で、当初は6,70人もいた会員が次第に減少した。 明治42年の会合に出席したのは佐久間長敬、高橋正法、都筑成幸、安藤親枝、原胤昭、それに仁杉英の6人のみだったという。 下の写真に写っている人物はまさに上に挙げた6人と、かっては官軍方で維新の時には南町奉行所受け取りの責任者であった土方久元である。撮影時期については記されていないが、この時に撮影された可能性が高い。
南北会の規約は何回か改正されているが、明治35年当時の規約は下記のとおりである。 (四番町歴史民俗資料館) この当時、英は幹事として名を連ねており、中心的な存在だった。
南北会は上記のような規約で旧与力、同心たちの集まり以外にも家族を含めた懇親会や往時の扮装をしたりするイベントを開催しており、下記2枚の写真が八右衛門家の子孫である世田谷仁杉家に残されている。
昭和時代の南北会 昭和に入ると江戸時代からの生き残りは極僅かとなり原胤昭を別とすると、与力・同心だった人の子や孫の世代になった。 昭和11年当時の南北会規約及会員名簿が四番町歴史民俗資料館に所蔵されている。これによると仁杉家からは博氏が会員名簿に名を連ねている。
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